市身連結成50周年記念誌 テキスト版 後編




活動記録
和歌山市ふれ愛センター(平成3年12月1日竣工)
市立身体障害者総合福祉センター建設陳情書
和歌山市長
旅田卓宗殿
旅田市長におかれましては市長に就任以来早くも一年有余年を過ごされましたが、この間、極めてエネルギッシュに市政を遂行されておられますこと、心より敬意を表します。
和歌山市におきましては、昭和49年4月全国にさきがけて身体障害者福祉モデル都市の指定を受け、一部施策の改善はみられましたが、未だに障害者が楽しく安心して暮らせる環境整備や、社会復帰に欠かせない機能回復訓練等の施設が、完備しておらない状態であります。
さて、私達は昭和30年以来福祉センター建設を要望して参りました。お蔭をもって、昭和41年高垣前々市長の理解により、現在の社会福祉会館が建設されたのであります。しかし、完成後間もなく市長が交替されたことから、なぜか使用許可のおりないまま機能訓練室は保育所となり、点字図書室、ろうあ者集会室他すべて市・民生部の事務室として使用され、10年を経過して参りました。
その後、昭和51年現在の市庁舎が建設され、民生部が本庁に引上げ、ようやく一部の使用が認められ、現在に至っておりますが、しかしその大半は市社協関係で使用されており、福祉会館とは名ばかりで、ほとんど機能しておりません。近隣40万都市の現状を見るときに、このような都市は皆無に等しいのであります。
時代は正に世界一の長寿社会を迎えようとしており、一方では高齢化、重度化する障害者。日を追って起きる交通事故や労働災害、または疾病による若い障害者の急増する現状を思うとき、遠からず国民の20%以上が、障害者同様の時代が迫ってこようと云われて居ります。
不自由な人達が、完全参加と平等の理念のもとに社会参加を目指すためには、どうしてもその拠点となる、市立身体障害者福祉センターの建設が最大の急務であると考えます。
折しも昭和64年は、市政施行百年記念の年であります。
我が連盟はこの記念事業として、最もふさわしい身体障害者総合福祉会館の建設を要望し続けました処、宇治田前市長もその必要を認め、60年度に調査費を計上し、既に第一回の先進施設の見学も終っております。
私達は昨年、旅田市長に就任のお祝いに参上したとき、このことについてもお願いを致しましたが、その節市長さんにおかれましても、当然、引き次いで建設しなければならないことと受けとめていただき、私達も安心をして今日まで心待ちして参ったのであります。
しかしその後、何等の進展も聞かれず、民生部内のお話では、何時になるかわからないと言うような感じの答えしか聞かれませず、内心あせりを感じているこの頃であります。
勿論、市財政の窮状は良く理解は出来ますが、その再建の方途は別途に努力をして頂くとして、あくまで必要なものは万難を拝して実施して頂くのが本来の政治であると存じます。
何卒、旅田市長におかれましては上記事情ご賢察の上、私達30年来の要望であり、悲願であります市立身体障害者総合福祉会館の建設を、市政施行百周年記念事業の目玉として、是非共、建設下さるよう伏して陳情致します。
昭和62年9月1日
和歌山市身体障害者連盟
会長中田増夫
和歌山市盲人協会
会長北山豊
和歌山市聴覚障害者協会
会長藤本恵治


思い出のスナップ集
市福祉大会(京都) 平成4年(1992年)5月31日 肢体協会の方たち

第42回市連盟福祉大会 平成6年(1994年)5月8日 太秦映画村

第42回市福祉大会(京都) 平成6年(1994年)5月8日

△結成45周年 平成9年(1997年)4月13日

△将棋大会 平成11年(1999年)7月4日

△市福祉大会淡路花博 平成12年(2000年)5月14日

△県スポーツ大会(紀三井寺) 平成12年(2000年)5月28日

△第49回市福祉大会 平成13年(2001年)5月13日

△USJ平成14年(2002年)5月12日

△第50回市福祉大会式典での 市長表彰者の皆さん 平成14年(2002年)5月12日

△第50周年記念福祉大会 平成14年(2002年)10月20日
市長表彰を受ける山嵜副会長
市長祝辞
受賞者謝辞 北山監事
大会決議をする北口理事
大会宣言をする輪嶋会員
第二部 松上京子先生の講演
第三部 演芸


50年のあゆみを振り返って
和歌山市視覚障害者福祉協会相談役
和歌山市身体障害者連盟監事
北山豊
和歌山市身体障害者連盟がここに結成50周年を迎えました。まさに光陰矢のごとしの感がいたします。
昭和28年薫風かおる5月、肢体障害者、聴覚障害者、視覚障害者の3団体が県下最大の障害者団体として発足以来の半世紀を振り返ってみたいと思います。
昭和28年といえば戦後の荒廃からようやく日があたろうかという兆しが見え始めた頃です。特に私たち障害者にとってはその福祉や暮らしの面において、その道は極めて険しい時代でありました。そうした時代の中、唯一明るいニュースといえば伊東絹子さんがミスユニバース第3位に選ばれて八頭身という言葉がもてはやされたことを思い起こします。
こうした中、身体障害者がともに励ましあい、親睦と友好を深めつつ自立への道を励むべく、和歌山市身体障害者連盟の福祉大会の開催が決議され、その第1回大会が昭和29年12月5日市民会館において開催され、会場を揺るがすようなその熱気は本連盟にとってはまことに幸先の良いスタートでありました。
そして、この大会は連盟の歴史と伝統を刻みっつ今日も尚連綿として続いています。
さて、これより先昭和25年4月1日に身体障害者福祉法が施行され、身体障害者手帳が交付されました。しかし、当時の福祉政策は極めて貧困で軽度障害者を対象とした感があり、本連盟の結成を促した要因の1つであったものと思われます。
かくして昭和34年4月皇太子殿下のご成婚の儀が執り行われ、これを契機として、テレビをはじめ炊飯器、冷蔵庫と電化製品が飛ぶように売れ、わが国の経済事情もようやく成長期に入ったこの時、無拠出のものでもはじめて障害福祉年金が交付されることになりました。但しこの時は、1級障害者のみで月額1,500円でした。
かくして、本連盟においても更なる組識の強化と団結、そしてその拠点となる市立身体障害者福祉センターの建設要望の声が出始めてきました。
本連盟の基礎作りとも言うべき10年間が経過し、昭和38年5月16日第10回市連盟福祉大会がはじめて県外で開催され、明石城公園に255名の会員が参加して盛大に行われました。これまでの本連盟の委員会や研修会等会議は、ほとんど市民会館にて行われてきたことを考えると、この10年間に大きく成長したといえよう。続いて同じく10年間の足跡をたどってみよう。この間わが国においても東京オリンピックの開催、東海道新幹線の開通、さらには大阪での万国博覧会で月の石を見るのに長い列ができたことも、つい昨日の出来事のように思います。こんな高度成長期の真っ只中、わが連盟もたくましい発展を遂げた時代でもありました。中でも特筆すべきは、昭和46年11月6日県営紀三井寺競技場において皇太子同妃両殿下をお迎えして「希望に満ちてたくましく」のスローガンのもと、第7回全国身体障害者スポーツ大会が開催されたことです。大会前日全国各地から来和する選手の出迎え、または夜は連盟役員が各選手の宿泊先を訪ね、紀州みかんを手土産に表敬訪問と大会での活躍を激励してまわりました。
本連盟の最大の目的でもある3団体の協調が見事に実を結び、出場選手に感銘を与えるとともに県民市民の身体障害者への正しい理解と認識が大きく培われたものと思います。
尚、この年間において、わが連盟は委員会、役員研修会、福祉対策懇談会等々役員の資質向上や身体障害者のより福祉の向上を目指して、頻繁に開催し和歌山市をはじめ関係各当局に対し活発なる要望活動を展開し、また3団体のより深い友好と調和を深めるべく、市長杯争奪将棋大会が開催され始めたのもこの年代です。まさにこの10年間は本連盟の存在を県内外にアピールした貴重な年代であったと思います。
さらに年代は変わって、昭和48年から同57年の10年間ですが、まず第1次石油ショックによる経済事情の悪化の中この年代の注目すべきは何と言っても昭和54年の国際障害者年に続いての国連障害者の10年でしょう。
完全参加と平等を共同テーマに国をあげての催しや行事が開催されました。本連盟においても向ノ芝に国際障害者年記念植樹を行ったのをはじめ、和歌山駅及び和歌山市駅にて障害者の日記念キャンペーンや記念パレードへの参加などを通じて、身体障害者施策やボランティア活動が目覚しい進歩を見せた福祉大躍進の年代でありました。
続いて、昭和58年から平成14年10月20日、本連盟結成50周年記念式典までの注目すべき事項としてまず、私どもが30年余にわたって要望し陳情を重ねてきた福祉の拠点となるセンターの設立が長年にわたる熱烈な要望の地道な運動が実り、平成3年12月1日、和歌山市ふれ愛センターとして完成、同6日堂々のオープンを遂げたまさにこれこそわが連盟が会員あげての故宇治田市長から前旅田市長までこの日を夢見て熱気の中にも粛々として陳情運動を続けた成果だと思います。特にこのふれ愛センター内において、わが連盟が直営するレストラン「ハートフル」が実現したことは故中田会長を中心に本連盟の固い結束があったればこそと考えます。そして木の香も新しいふれ愛センターにおいて平成4年4月、連盟結成40周年記念福祉大会が開催され会場をうずめた会員の顔も喜びと感激で輝いていました。
続いて、平成9年4月、さらには平成14年10月20日、半世紀にわたるわが連盟のゆるぎない歩みを祝して結成50周年記念式典が晴れやかにそして誇らかにふれ愛センターにおいて開催され、南方章夫会長の下、一段と厳しい社会情勢の中、肢体、聴覚、視覚の3団体が英知を出し合い更なる団結を深めて何かとご支援ご協力賜った和歌山市当局をはじめ、関係各機関及び市民の皆様方への感謝の念を忘れることなく更なる前進を続けようではありませんか。それにしても、長年役員の末席をけがしてきた私にとりましても何かとご指導いただきともに歩んできた故中田前会長が、50周年記念式典にその姿の見えなかったことを一抹の寂しさではありましたが、南方新会長の下一致団結し名実ともにすばらしい和歌山市身体障害者連盟になるよう遠き空より見守ってくださることと信じてこのページをとじたいと思います。

思い出
和歌山市肢体障害者協会副会長
和歌山市身体障害者連盟監事
塩谷二郎
私は、昭和24年8月、落盤事故により左大腿部骨折し身障者となりました。
33年身障者手帳交付され、42年高松分会に入会、前分会長が亡くなり51年、分会長になりました。初めて当協会の役員会に出席させてもらった時、皆がおかしな顔で、あまりものも言ってくれませんでした。本当につらく情けなく思ったこともありました。後で聞いたことですが、ある人が前の役員会の中で塩谷は、共産党だから協会の役員にしたらどんな事されるかわからないと言ったそうです。当時中田会長もその様に思っていたのではないかと思います。それ以来、私は協会・連盟の行事は勿論選挙の時も全面的に協力する中で中田会長に認められ、後に協会の理事何年かして連盟の理事にならせて頂き、其の後会長さんと意見が合わない時もあり口論したり又よく言ってくれたと誉められた事もありました。本当にやさしく思いやりのある会長様でした。今は亡き会長さんの事を忘れる事ができません。又当分会の会員が連盟の福祉大会に参加しないので話したところ、車椅子はダメと云われたとの事、中田会長と話し、当時は参加者が多くどうにもならないとの事、判った様な判らない様な思いをした事もあります。其の後分会の役員さんと相談して当高松分会で車椅子を中心としたバスツアーを行うと決まり松江・中之島・有本その他の人の協力により第1回目は神戸で行われた神戸博に行かせて頂きました。何年か後エキスポランドへ行った時入場料1,200円でしたが身障者の名簿を出すと100円にしてくれ、びっくりした事もありました。いつもバスの中では時間等クイズ又ビンゴゲーム、カラオケあり年々参加者が増え皆様喜んで頂いた事もあり苦労もありました。ある時車椅子の人が気になるので早めに集合場所へ行きますと車椅子の人が全員いて20分前30分前から待っているとの事。他の人に迷惑を掛けない様気を使って早くから来て下さっているのに対し、頭が下がり涙が出るほどうれしく、又安心させて頂く事が出来ました。最近は人員も減り県の福祉バスを借りやっています。一昨年から行っていません。
今度の私の交通事故により今後の事を考えています。
最後になりましたが、当協会又各分会におきまして高齢化により人員が減少しています。この事に付きまして、現在の役員だけではどうにもなりません。会員の皆様方のご協力なくして増員する事が出来ないと思います。今後は、役員・会員が一体となって頑張りたいと思います。会員の皆様方の尚一層のご協力をお願い申し上げまして終わらせて頂きます。
有難うございました。

過ぎ去った50年を振り返って
和歌山市聴覚障害者協会
和歌山市身体障害者連盟理事
吉見輝子
この度、和歌山市身体障害者連盟の50年を迎えられましたことを、心からお祝いを申し上げます。
私が県身体障害者連盟と言う団体を知ったのは、一代目の会長であった金成先生との出会いから始まりました。
しかし、和歌山市身体障害者連盟については全く設立されていることは知りませんでした。
手話通訳も居ない時代で、正しい情報が伝わってこず、20代の若さと無知もあり失礼ながら身体障害者連盟に対しての興味もなく、その後、ろうあ運動に減り込んで差別問題や人権問題などの他に、手話を教えて通訳のできる人を育てることに、情熱をかけてろうあ運動に取り組んできました。
障害基礎年金の支給運動で全国の身体障害者連盟が政府へ陳情に東京へ代表者を派遣することになり、和歌山からも3団体の代表として当時、県ろうあ協会長だった私の主人も行くことになり、手話通訳者も居なかった時代で連盟の計らいをいただいて私も同行させていただきました。
たしかに、1956年でした。陳情後の報告会にも手話通訳が居なくて、さっぱり意味の分からないままで帰和いたしましたが、障害基礎年金が支給されて、この運動の成功は身体障害者連盟と言う団体の大きな力が、国や地方行政を動かしたものであるとようやく理解できました。
身体障害者連盟は国に対しても又、地方行政に対する力は視力障害者、肢体障害者そして聴覚障害者のそれぞれの団体が団結することが、大きな行動の基礎になるものと思います。
和歌山市身体障害者連盟が創立された頃、手話通訳の保障もなく発言のタイミングがなかなかとれず悩み出席したものの、会議の内容が把握できなかったと先輩から聞いています。現在、聴覚障害者には手話通訳者のお蔭で平等に発言できるようになるまで、先輩の方達のご苦労も大変だったと想像します。
去年は私共の協会で全国ろうあ者体育大会及び、近畿関係の大会を幾つか続けて開催致しましたが、県や市及び、県、市の連盟のご協力やご指導を戴きすべての大会を成功しましたことご理解の有る暖かいご支援の賜物と感謝致しております。
これを機会に身体障害者連盟の存在が私個人として、身近に感じるようになりました。
今までコミュニケーション関係もありましたが最近、肢体障害者の方も手話サークルに入会して下さるようになり、肢体障害者の方とも気楽に手話で話せるようになってきましたことは大変喜ばしいことです。
50年という年月、10代だった私はその頃は差別語で、オシ、ツンボ、メクラ、チンバと辛い差別語でいじめられた私たちも差別をなくす運動、障害者の人権を守る運動を進める中で、逞しく生きて50年の歴史を残すことができ人間として、社会人として障害者も胸を張って平等に社会で、地域で生き生きと暮らしていける世の中に共に障害者が力を合わせて、まだ見え隠れする差別をなくして行かねばならないと思います。
高齢障害者が安心して癒される障害者専用のホーム、又は高齢障害者住宅等の保障はこれからどうなるでしょうか。
高齢障害者の中には障害者基礎年金だけで生活をしている方は、新しく出来た支援費制度で厳しい暮らしになるのではないでしょうか。50年の節目として高齢障害者の福祉にも取り組み安心した老後を過ごせられる福祉を望みます。
最後になりましたが、50年記念行事で聴覚障害者も参加された皆さんと共に手話落語で楽しく笑い・手品にも引き込まれたひと時、障害が違っても、お互いに心を通わせ助け合う和歌山市身体障害者連盟に発展されることを期待申し上げますと共に、今年から「アジア太平洋障害者の10年」が始まります。
障害者の「完全参加と平等」のテーマ通り活動ができる住みよい世の中に力を合わせて頑張りたいと存じます。

故中田前連盟会長を偲んで
私と中田会長との出会いは同じ城北地区で共に自治会長の職に就いていた時からでした。地区の団体長会議があればいつも顔を会わせていました。その時分私はまだ、身障者ではなかったのです。中田会長の年は私より一才上でした。私は46才の時、市駅前20区の自治会長に選ばれ、中田会長も若くから自治会長になっていたのだと思います。
私は50才の時、国道24号線の紀ノ川堤防、布施屋付近の狭い2車線道路上で三重県の大型トラックで23才の運転手が無理な追い越しをしてきて、私の車と正面衝突。ボンネットはぺっちゃんこにつぶされて、私の両足が挟まれ4ヶ所の骨折をしました。10分後には出血多量で意識不明となり、救急車で病院に運ばれたのは午前11時半頃だったと思いますが、気がついたのは夜の9時過ぎでした。
丸2年間の入院生活の後、ようやく松葉杖姿で退院しました。そのため民生委員は辞めさせてくれましたが、自治会長は入院中副会長が代行するからと言ってそのままで退院してからも続けていました。そして障害者と認定され、肢体障害者協会に入会することになったのです。人はいつどんな災難に遭うかもわかりません。
それからは中田会長と益々親密な間柄となり、協会の副会長もさせて頂きました。
本年は、和歌山市身体障害者連盟結成50周年の記念すべき年を迎えるに当たり中田会長は戦後の荒廃したその時期に肢体障害者協会に続いて、障害者連盟の結成を成し遂げたことは現代と違って障害者に対する理解も薄く、大変な苦労だったことと思います。
昭和28年といえば中田会長は36才、この若さでこの事業を達成したことは、当時の役員各位の協力もあったことと思いますが、その熱意と努力には感謝と感激の他ありません。又平成3年には、私達障害者の拠点でもある、ふれ愛センターの建設に地元の方や連盟役員各位の協力もあったのですが、会長自身の格段の努力によって遂に市ご当局のご英断により県下に誇る立派な本当にわれわれ障害者の、ふれあいの場として完成したことを忘れることは出来ません。
自己を顧みることなく地元自治会と障害者福祉向上のため一身を捧げてきたとしか思えません。
平成12年7月、中田会長は遂に50周年記念の日をみることなく天国へ旅立ちました。でも私達にいろいろとよい教訓を残してくれました。中田会長の遺志はいつまでも生きていくでしょう。私達はその遺志を受け継ぎ今後も障害者福祉向上のため、まっしぐらに前進いたしましょう。
小林忠男

あとがき
和歌山市身体障害者連盟結成50周年記念として、半世紀のあゆみを発行出来、皆様に配布できますことは、大きな幸せであります。
当連盟の過去の記録の資料は少なく、各協会や個人の大会記念写真等、可能な限り集めましたが、何等、編集経験の無き者が、ただ記録を集め極く簡単にまとめたに過ぎないものとなりましたことご容赦、ご理解下さい。
記念誌発刊にあたり、ご寄稿、ご協力していただきました方々に、厚くお礼申し上げます。

和歌山市身体障害者連盟結成50周年
記念誌発行編集委員会
編集委員長 南方章夫
副委員長 山嵜景生
副委員長 藤本惠治
委員 神崎順匡
委員 田中宏昭
委員 宮本克二
委員 平北直樹
発行日 平成15年2月5日
発行所 和歌山市福祉事務所 障害福祉室内 和歌山市身体障害者連盟
発行責任者 編集委員長 南方章夫





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